私は裁判員制度そのものが国民主権の民主主義を代表するといってもすぎることがないほど良いと思う。憲法がそう定めても、国民一人一人が自立しなければ、民主主義は達成しようがない限り、裁判員制度はきっかけになり得るとも言える。
多 くの人が反対するのは被告に罰を与えると決める時に高まっているストレスにほかならぬ。言うまでもなく、法の素人にとってそれがとんでもない責任の重さを 初めて味わうかもしれない。だが、自立した大人ならば、自分の意見を信じて、きちんと叱るべきだ。「そんな難しい判断は専門家に委ねたい」とか、「高裁も そう言ったら、仕方がなかったんだ」というのは、自立している姿はどうも見えない。自分の責任で人を裁くとなると、尻込みする感情は分からないも のでもないが、あえて賛成できることもない。実際には、テレビでニュースを見る場合にいったっては、「これは死刑でも仕方ないよね」など、油断せずに裁け るわけだ。という訳で、制度に見直しを要るかどうかはともかく、大人らしく判断して、結論を言い渡す勇気がないのは見るに耐えないから、裁判員制度はその 勇気をもたらすものだと思う。
いわば、裁判員制度は国民の民主主義のひとつである権利と義務に繋がる大切な一つだ。その様な反対意見故に、民主主義の理念が国民のものに何年が経ってもならないのだ。そういうところは、多くの国民がもっと司法制度に対して、 賛否にかかわらず、真剣に考える機会になるという裁判員制度が必要だ。投げ出さず、避けようとせず、あえて挑戦して、子供たちの為に今の大人が将来から尊 敬される原動力が裁判制度のみだけではなく、国への愛を育成、誕生させる一人ずつが政治に参加する動力が、今のこの国に欠けていると思っている。その良識 は人間としてあなたの自信が育てるあげく、余りに情けない「専門家に丸投げ」ということが消滅するうえで、民主主義を誇りになれて、民主の精神を国民が徹するわけだ。
最後にオスカー・ワイルドが言ってくれた名言を引用させてもらおう。「デモクラシーは単に人民の、人民による、人民のために、こん棒で打ち倒すことを意味する」というのこそ、裁判員制度を描いているのではあるまいか。